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※これはBUFFALO ZINE issue #3 のために行ったインタビューの日本語原文・ノーカット版です。これは前編で、後日後編をアップします。

Interview by Yumiko Ohchi (Marginal Press) 

※このインタビューは2014年11月に行われた時のものです。

写真家 沢渡朔がルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をテーマにとある少女をモデルに撮りおろした幻想的な写真集『少女アリス』が日本で出版されたのが1973年。出版当時から高い評価を得ていて、国内外でも熱狂的なファンがいる程人気は高く、現在でもその写真集は古書業界で高値で取引されている。

その写真集の存在は知っていたが、ある日突然スペインのBuffalo編集チームから「沢渡朔のアリスについて取材して欲しい」と言われた時は正直少し驚いた。彼らはとにかくこの『少女アリス』に魅了されているようだが、日本人写真家 沢渡朔についての英語での情報がほとんど無いが故、彼らの間で沢渡氏はミステリアスな存在であった。確かに、インターネット上でも沢渡氏についての英語での詳しい情報はほとんど見つからなかった。日本人であれば沢渡氏の名前は多くに知られているし、名前を知らなくても彼の撮った数多くの著名な女優らの写真を見たことが無いという人は少ないだろう。とはいえ、日本人の自分でも何故この『少女アリス』が時を経た今でも多くの人に愛されているのか、さらには「少女」という非常に魅惑的な、しかしはっきりと定義することの出来ない謎の生物、については上手く説明できない。

ならばインタビューを、と取材の申込をしようとした時、偶然にも『少女アリス』のアザー・カットを集めたスペシャル・エディション(注1)が40年程ぶりに出版されるという話を耳にした。出版に合わせて開催された写真展に足を運ぶと、これまた幸運にも沢渡氏ご本人に会うことが出来た。様々な偶然と好機に恵まれ、ある冬の晴れた午後に沢渡氏の事務所にお邪魔してインタビューをさせてもらったのだが、最初に沢渡氏が「そういえば昔、海外の雑誌に載ったことがありましたよ」と言って出してきてくれた雑誌が、1977年に出版されたスペインの写真雑誌だった。そしてそこには『少女アリス』の作品が紹介されていた。奇しくも40年程ぶりに『少女アリス』について取材する海外の雑誌がまたスペインの雑誌だったということは何かの偶然なのだろうか。何にせよ、氏のキャリアから傑作『少女アリス』が出来るまで、そして永遠のテーマ「少女」について話を聞けたことは私自身にとってのみならず、海外のファンにとっても大きな意味をなすと信じている。

注1)『少女アリス スペシャル・エディション』2014年・河出書房新社刊

沢渡朔氏   2014年11月(インタビュー時)都内の事務所にて。

最初にカメラを手にして写真を始められたきっかけから話してもらえますか?

 

5歳の時に山形に疎開して、だいたいみんな疎開が終わったらすぐに東京に帰ってくるんだけど、うちは東京の家を親父の友人に貸していて、その人がなかなか出ることができなかったんで、その後10年くらいずっと山形にいたんです。そして中学の修学旅行で日光とか箱根、江ノ島とか行った時にリコーフレックスっていう二眼レフのカメラを持って行って、みんなを記念撮影したりしてたんです。その頃あたりからかな。

 

その時はお友達とか周りの人たちを撮るって感じだったんですか。

 

うん、もちろん風景とかも撮ったりしてたね。そのへんがきっかけで山形にいる時も弟とか妹を撮ったりしてたのね。そのうち、映画館の中でスクリーンに写る自分の好きな女優さんを撮りたいと思うようになって。例えば若尾文子っていう女優さんを撮ったり。昭和25、6年くらいですから、情報が無かったですからね。女優さんのブロマイドを自分で作るっていう感じですね。それで写真の本を買って勉強したら意外とちゃんと写ったんですよ。あとは、スクリーンの中のジェームス・ディーンとかマリリン・モンローとかも撮ったかなぁ。本当に田舎だったですからね。東京に早く帰りたくて仕方なかったですよ。

あとは、当時作品っぽいものも撮っていたみたい。『写真の撮り方』みたいな本に作例写真とかあるじゃないですか。例えば遠近感がある橋の欄干を撮った写真とか。そういうのを見ると同じようなものを撮ってみたりとかしていましたね。あとは、僕は相撲が好きだったんで山形に相撲の地方巡業が来たらそれを撮ったりしていましたよ。近くにも寄れないし、望遠レンズも無かったですから、遠くからでしたけどね。あとは、雪村いづみっていう歌手が好きでね。彼女が来た時も撮ったなぁ。まぁ、当時は自分が好きなものを撮っていたんです。


その時は、誰かに見せるとか作品として発表するという目的は全く無く、完全に自分の楽しみとして撮っていたんですか?

うん。全然無い。その時撮っていたものは芸能関係だよね。野球とかも撮っていたかもしれない。それで、高校から東京に戻ってきて、部活でどこの部に入るか、っていう時に、あまり身体も大きくなかったし、それでなんとなく写真部に入ったんですよ。そしたら写真部が結構活発で、先輩たちも色々教えてくれたりして、どんどん面白くなっていったんです。生徒の中にお姉さんが女優さんだった人がいたので、その女優さんを呼んで撮影会をやったり、モデルさんを呼んで撮影会をやったりした。あとは、夏休みに九十九里浜の方に合宿に行って、漁村を撮ったりしてね。あの頃は漁師もまだふんどしだったりして、面白かったんだよ。

あとは、休みの日は女の子とデートするんじゃなくて、東京を歩き回って色々と撮ってた。千住のおばけ煙突とか、下町の方にも行って撮っていたなぁ。そういう意味では結構活発にやっていましたよ。台風がきて亀戸の方が水浸しになったと聞けば出かけて行って、報道写真家キャパになったつもりで腰くらいまで水に浸かって撮ったりして。そういう自分がかっこいいと思っていたんじゃないですかね。

 

当時憧れていたのはキャパだったんですか?

キャパでしたよ。報道写真家になりたい、って思っていたんでね。

あと、ちょうどあの頃はロカビリーが流行っていて、テレビでやっていたりするとすぐに撮りに行ったりしていましたね。女の子たちの熱気がすごかったですよ。ステージに上がったり下着を投げ込んだりしてね。そこをかいくぐって一番前まで行って、ミッキー・カーチスを撮ったりして。その写真をカメラ雑誌のコンテストに出したらたまたま一等になったんです。さらに九十九里浜の漁師の写真が二等になって、あともう一点が佳作に入って。初めてコンテストに出してみたら一挙に3点が入選しちゃったのね。それが高校三年生の時。それで「これはもうカメラマンになるしかない」って思ったんです。


じゃあ、その頃に撮られていた写真は人に見せることを前提として撮られていたということですか?

うん、その頃は作品として撮っていた。コンテストに入選してからはもう入選するのを目的に撮ってた。そうやって狙って撮ると全然だめなんだけどね(笑)

それで、日大の写真学科に行くしかないな、ってなって入学したんです。篠山紀信とは大学に入ってすぐに友達になって、今でもずっと続いていますね。

この頃はフィルムがすごく高くて、フィルムを買うためにコンテストに応募して賞をもらって、その賞金でフィルムを買っていました。あとは学生の頃からもう結構仕事していましたね。婦人誌のレギュラーを6、7本くらいは持っていました。学校はつまらなかったんですよ。だから自分で仕事して稼いで、そして自分の名前がクレジットされる方が全然面白かった。それで自分の好きなジャズとか撮ってた。ちょうど大学二年生の頃にフランスのヌーヴェルヴァーグの映画とかモダン・ジャズとかが流行っていたのね。それでそういうものに影響されて黒人の女性とか撮ってた。その頃に撮るものが自分の中で少し変わったな。

興味の対象が日本のものから海外のものへと変わっていったのでしょうか。

うん、やっぱりカルチャーショックだった。映画から音楽から小説から、日本のものとは美意識が全然違ったからね。ビートニクとかフランスのヌーヴォーロマンもその頃だったしね。いい時代だったんですよ。

そして大学を卒業してから日本デザインセンターっていう広告の会社に入ったのね。女性の写真を撮りたいなぁ、って思って入ったんだけど、その会社は全然そういう仕事がなくて地味でさ、、、。まぁ、3年くらい勤めてから辞めて、ファッション写真をやれば綺麗なモデルさんが撮れると思って、それでファッション写真を始めた。最初は4ページくらいしかもらえなかったけど、だんだん仕事が認められてページも増えていって忙しくやっていましたね。そういうのをやりながら、カメラ雑誌用に自分の作品も撮っていましたよ。その頃は発表の場はカメラ雑誌しかなかったから。子供とか女性とか、自分の撮りたいものを撮っていました。

 

→→→ 沢渡氏にとっての永遠のテーマ「少女」とは? 続きは後編にて!

 

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